由緒・歴史

2014年12月19日 » by admin.kojinyama » No Comments

~ 当神社の起源は1,350年前と伝えられています ~

石段と本殿 天智天皇の時代
近江国(現滋賀県)に四ヶ所の祓殿(はらえどの)が設けられました。その四ヶ所の祓殿とは、南三郡(現大津市など)は唐崎、西二郡(現高島市など)は白髭前、北三郡(現長浜市など)は木之本、中四郡(現彦根市の一部・犬上郡・愛知郡・東近江市・蒲生郡)が荒神山であり、今で言う荒神山神社は、犬上・愛知・神前・蒲生四郡の祓殿及び御祈所と定められていました。 毎年六月晦日の大祓会には関係四郡は勿論、遠く各地から大勢の崇敬者が荒神山に上り参拝し、これを水無月千日詣でと称しました。
△これが現在も続く毎年六月二十九日・三十日に行われている例大祭「みなづき祭」の由縁です。

古地図聖武天皇の時代
行基菩薩は犬上郡に四十九院の伽藍(がらん)を創建されました。行基菩薩が荒神山に登られたとき、社地の霊験を感じ、堂宇(どうう)を建てられ、竃(かまど)の神、三宝荒神(大日・不動・文殊の三体)を勧請(かんじょう)して、犬上郡にある四十九院の宿からはじめて、ここを奥の院とし、奥山寺と名付けられました。 奥山寺には、別当勝乗院(べっとうしょうじょういん)、本願満蔵院(ほんがんまんぞういん)、念仏堂等が建立されていました。

△これが竃の神としての荒神山神社の始まりとされています。竃の神が奉祭され奥山寺が建立される以前から、山頂には祓殿及び御祈所のお社がありました。
△明治初頭の神仏分離に至るまで、神仏習合の形で寺院として存続していました。

行基菩薩は奥山寺の伽藍成就の後、伊勢の神宮に礼参されました。その時に伊勢神宮の外宮の御神木、宇賀璞の実を戴いて境内に植えられたのが、現在の御神木であり、実に千二百余年を経ている老樹であります。当神社では『璞の木(ダマのき)』と称しています。

戦国時代
奥山寺は叡山派(天台宗)であることから、織田信長の兵により焼き払われ幾多の宝物・古文書は堂宇と共に焼失してしまいました。

江戸時代
井伊直政が近江に封じられた時には、当山に築城の計画があったそうです。 井伊直孝が慶長、元和の二度の大阪出陣の際に、武運長久の特別大祈願祭が行われ、藩主の懇望により境内の竹を旗竿に用いました。 以後、井伊彦根藩の崇敬極めて厚く、明治初年の廃藩に至まで約三百年間は毎年米十五石を供進されるなど莫大な寄進や建物修築等があり、社頭の保護維持に尽くされました。
△慶長・元和二度の大阪の陣の際には、井伊直孝が戦勝祈願をし、その大願成就の報賽として現在境内にある書院を奉納建立しています。

慶応4年
神仏分離の官命により、祓殿及び奥山寺(三宝大荒神社)を廃止し、新たに社殿を造営しました。これにより祓殿荒神社、三宝大荒神社を改め荒神山神社と改称して今日に及んでいます。

昭和34年
荒神山の麓、本坂入口に遥拝所ができる。
△彦根市里根町の天寧寺境内奥にあった井伊家祖霊社の社殿を当時の彦根市長・井伊直愛さんより譲り受け移築されたものです。

昭和45年~52年
荒神山々麓の北側と南側より二本の自動車林道が開通し、参拝の便が良くなる。
△昔ながらの本坂も現存し、登山できます。

現在も、火と竃(台所)の神・祓え神の『荒神さん』と親しまれ、広く万民に崇められています。

 

 

 

 

 

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